日記(8)


 七年後の昭和三十七年八月七日、南武線の事故は現実となり、静子の家ではしめやかに葬儀が営まれていた。静子は七年先の事故を知っていたのだ。


  ここに静子の日記がある。

「―昭和三十年八月七日―、怖い夢をみた。私が音楽室の鏡に向う時、遠雷が聞こえた。そして、梢で私の方を見て寂しそうに鳴いている雀を見た。なんだか、私を呼んでいるようだった。稲光は嫌いだ。ガーベラも嫌いだ。鏡は見たくない。ピアノも止めようかな。祖母ちゃんが言ってた。 “人はそれぞれ食い扶持を持って生まれてくる。それを食べ尽くしたとき、あの世にいくのさ”って。私はどのくらい食い扶持を持って生まれたのだろう』


   日記は家族の目に触れることなは無かった。

 

(終わり)

日記(7)

   静子は南武線に乗り換えた。静子は新聞を広げ、もういちど日付を確認した。
 ガタンと車体を震わせて登戸駅を発車した電車は宿河原と久地で乗客の乗り降りを確認しながら、五時十三分に久地駅を発車した。程なく電車は乗客をシートに押しつけながらカーブを勢いよく曲がつた。その時静子は、前方に下り電車が脱線しているのを見た。次の瞬間電車は急ブレーキをかけ乗客は前のめりに倒され、電車は下り電車に突っ込んでいた。
 押しつぶされた電車は静子に襲いかかり、静子の目の前は真っ暗になった。はっとして額に手を当てようとしたが手が上がらない。息が苦しくなってきた静子は、やっとの事で額に手を当てることができた。手に生ぬるいものが感じられた。又、ググ、ググと電車が静子の身体を締め付けた。涙で周りが霞んだ。

  「ごめんね遅くなって。もう今日は練習止めようと思うの」
  「え、なんですって!」
  静子はハット我に返った。やっと元に帰れたのだ。
  「ねエ、今年は昭和三〇年よね」
  「そうよ。泣いたりしてどうしたの」
  静子はすすり上げた。そして鏡を見た。何もかも、元に返った。静子の長い髪も基のままだ。
  「そうよね。昭和三〇年八月七日よね」
  静子は一目散に音楽室を出た。静子は涙を拭きながら時計を見た。四時、まだあれから一分も経っていなかった。時計は何時ものように気持ちよさそうに時を刻んでいた。校舎を出ると夕立がやって来た。静子は濡れるのもかまわずに、雨の道を駆けて行った。

日記(6)

 急いで見た日付は昭和三十七年八月七日と記されてあった。“落ち着け”と言い聞かせた。今年は昭和三十年のはずだ。三十七年とすれば、あの友は未来の友となる。そんなことなどあり得ない。あり得るはずがない、“落ち着け”と言って目を閉じかけた。そうだ家に帰るのだ。家に帰ればきっと解るはずだ。母に会えば何が起こったのかきっとつかめるはずだ。早く帰ろう”新聞を丸めると手提げの中に入れ小田急線の改札口へ向かった。

  静子は発車間際の電車に乗り込んだ。電車は静子の意思に逆らうようにゆっくりと動き始めた。胸の鼓動は静まらなかったが落ち着きを取り戻しつつあった。下北沢、成城学園前………駅の名前は変わりなかったが、様子が変わっいる駅舎を数カ所確認した。
 登戸駅に着いた。静子は定期券を見ると、昭和三七年七月八日から八月七日までとしてあった。今日までなのだ。名前は”名前は間違いなく自分の名前だ。静子は一つ一つ自分に言い聞かせた。“歳は”歳は二十三歳。そうだった。静子は二十三歳になっていた。あのときから七年経ったことになる。定期券には新宿から登戸経由で津田山までとなっているから家は元の所にあるはずだ。

日記(5)

友と話していると、今日は洋裁学校の授業が終わったら一緒に伊勢丹に行くことになつていたようだ。友は行けなくなったらしく、頻りに謝った。静子は友が行けなくなったことを幸いに思った。
  「ねえ、今日は何日かしら」
静子は、何気なく言うのに苦労した。友に心配かけたくなかったからだ。だがうまく言えるはずがなかった。
  「どうしたの。今日は八月七日よ。」
  「そうよね」
  「あなた、さっきから、きょろきょろしているけれど、誰か、探しているの」
  「エ?ううん」
 “八月七日。日付には変わりはない”と思った。落ち着くのだと自分に言い聞かせた。 “そうだ、新聞を買おう、新聞だ!”
  「あの、チョット新聞買ってくるわ」
  「そう………じあ、先に帰る、気をつけてよ、今日はどうかしているから」
  「エエ、ありがとう」
  駅前はこの時間でも人通りは多くせわしく歩いていた。やっと新聞を売っている所を見つけて駆け寄った。
 「おばさん、新聞」
 「まだ夕刊きてないよ」
  「朝刊の残りでいいの」
 「なら、これ」
  と言ってくれたのは朝日新聞だった。

日記(4)

日記(4)
 「だめよ、私なんか。あなたは美しいわ。私はあなたが羨ましい。あの赤いガーベラのようだわ」 
 と、すぐにその人は言った。静子は“あなたの名前は?”と聞きたかったのだ。まだ会ったことのない人だった。
  「さあ??」速く掃除をしましょう。………やあね、洋裁学校の掃除って。高校の時のが良かったわ。親切な男子がいて、みんなやってくれたのに。」
  「………」
 静子は教室を見渡して、なるほどと思った。左右にミシンがたくさん寄せられ、真正面には教壇があった。時計を見た。午後四時十分を指していた。暫く無言で立っていた。窓からは晴れ渡った空が見えた。
  「さあ、掃除が終わったわ、帰りましょう……あなた、今日はどうかしてるわよ。目ばっかりきょろきょろして。何かあったの」
 答えようがない。何処へ来てしまったのだろう。構内には、B服装学院と書いてあった。 静子は友であろうその人と校外へ出た。“おや”と思った。“なぜ速く気がつかなかったのだろう。ここは新宿だ。新宿駅だ。”静子は大きな声をだしそうになった。ここは東京なのだ。新宿なのだ。“でもこんな証券会社、ここにあったかしら。”

日記(3)


 ゆっくりと机の間を通り抜け鏡を覗いた。眩暈が少しずつ薄らぐにつれて鏡の中の顔が浮かび上がってきた。“あ”と言おうとして言葉を飲み込んだ。額の傷は大きく口を開けている。みるみるうちに血が盛り上がり、今にも、どっと溢れそうだ。静子は鏡に両手をついて、かろうじて倒れるのを支えていたが、ずるずると床にしゃがみ込んでいった。
  やがて雷雨が止み、濡れたグランドが輝き始めていた。静子は全身の力を指先に注ぎ身を起こそうとしたが難なく身を起こすことが出来た。急いで鏡に映る自分の顔を覗いた。額の傷はかき消すようになくなっていた。
 しかし、静子の周りには不思議なことが起こっていた。着ている物は、セーラー服の代わりにワンピースだった。髪の毛も、あの長い髪の毛はそこにはなかったし、顔かたちも少し変わったように感じた。誰かが呼んでいる。
「静子さん、狡いわよ。掃除サボっちゃ、さっきから、自分の顔ばかりみていて。でも、羨ましいなーあなたは、とても美しいんだもの」
 私に話しかけているのは誰だろう。静子は問うつもりで
「え!あなたは………」
 と言った。

日記(2)

 鍵盤に注がれる月の光を労るように流れる指先から青い蝶が飛び出て教室を舞っている。第一楽章が終わりに近づく頃には、蝶の数が教室に溢れ、指先が重くなるのを感じた。静子は重くなった指先を頭上に振り上げた。なぜそうしなければならないのか解らなかったが、その瞬間、睨み付けた鍵盤に向かって手を叩きつけた。その音に驚き青い蝶はかき消えたかと思うと、グランドの土が雷雨に跳ね上がり、瞬間、稲光が走って落雷した。部員はまだ来ない。
 静子は呆然として楽譜を見つめていた。暫くすると目のごく近くを何かがゆっくりと落ちていき、やがて赤い色を残しつつ鍵盤に広がっていった。血だ。真っ赤に澄んだ血が白い鍵盤に広がっていたのだ。おそるおそる立ち上がったが、眩暈がしてピアノに手をついた。ボーンと無気味な音が教室に広がった。何処を怪我したのか解らなかったし、痛みも感じなかった。