鯉濃(6)
おや、風か、冷たさが頬を撫でるように感じた。窓が開いていたのか、風が湯煙を一筋の道をつくるように分け入って、窓からここまで届いていた。その道の奥に湯に浸かっている人がいる。湯煙が少し動いた。肩までが見える。
「今晩は」
息をのんだ。女の人だ。こんな時間に、ここは男湯だ、間違えたのか、こちらが間違えた、のか。
「今晩は、驚かせてしまいました。大丈夫です。今日の客は貴方一人です。宿の人はみんな寝ましたから」
「ここは男湯」
と言って立ち上がろうとした。
鯉濃(5)
膳が片付けられ、布団が敷かれた。疲れが出たのか横になると直ぐに寝てしまい、目を覚ました時は十二時を廻っていた。
女将に教えられた風呂場は直ぐに分かった。脱衣所から大きな引き戸を開けると浴場から上がる湯煙で湯船は見えず、かすかに洗い場が見え隠れしている。
引き戸を閉め、ゆっくりと洗い場の鏡の前に行き、前を洗う頃には湯煙も落ち着きはじめたが、鏡に映る湯船は依然として湯煙で隠れている。
すり足で湯船に向かい身体を湯に浸かった。ちょうど良い湯加減で身体の疲れをいやしてくれる。目を瞑って、温泉に来て良かった、鯉濃もうまかったしと湯船に注がれてる湯の音を聞きながら思った。
鯉濃(4)
三日前、妻と妹とは、新幹線で京都に出かけていった。
その日の午後、そうだ鯉濃を食べに行こうと思い立って、関越道に乗った。妻に黙って一人で行くのは抵抗もあったが、なぜだか分からないが、行ってみたい感情を抑えることができなかったのだ。
鯉濃(2)
程なくして女将が膳を運んできた。膳には鯉濃がある。女将はご飯をつけると、ごゆっくり、お風呂はご自由の時間にどうぞと言って出て行った。
鯉濃は鯉の輪切りを濃漿味噌で煮込んだ味噌汁で、鯉の身肉とエキスが濃縮され、絶品だった。
鯉濃(1)
秋の日はつるべ落とし、夕日を眺めてから宿にたどり着くと、とっぷりと日が暮れていた。東の空に満月が昇っている。
チェックインカウンターで、昼食を食べなかったので風呂は後回しにして、予約の時にお願いしたとおり鯉濃で食事をしたいと伝えた。
部屋に通されてまもなく女将が訪れた。電話を頂いたあとすぐに番頭が鯉をとりに出かけまして、そしたら運良くすぐに鯉がかかりましてね。 一晩綺麗な水で泳がせて泥を吐かせておいた方がよいでしょう?。昨今はあまり鯉濃のご注文がございませんし、鯉も釣れなくなりましたのよと微笑んだ。微笑みは運が良い客だと言っているようだった。
薔薇の咲く庭(8)
この頃、私の家の周りや此のあたりでは、雑草が生い茂った空き家や更地にした売り地が目に付く様になってきました。主の事情は分かりませんが、きっと何処かで薔薇の花を咲かせているのでしょう。そう思いながらの帰り道を、私は下を向いて歩いていました。
おわり